長野がん看護
家族看護研究会

事例検討の意味、トップ画像

事例検討の意味

看護で事例検討をする意味:
看護師のもつ‘まなざしの温かさ’とは何でしょう

長野がん看護/家族看護研究会が、「渡辺式」家族アセスメント/支援シートを使う理由は、看護師が持つ‘まなざしの温かさ’を掘り起こしたいからです。ここでの家族とは、患者と家族という並列ではなく、患者を含む丸ごとの塊(ユニット)を意味します。つまり、‘ある意味をもった複数人の集まり’を取り扱う看護を検討していきます、の意味です。
この「渡辺式」を基盤にした看護研究会は、かれこれ13年間開催してきました。

研究会のある風景

看護師が向き合っている事象は次のことでした。ーまだ28歳の若い終末期の男性患者のベッドの横には、身重の妻がいて、医師たちは次々と新しい化学療法を試みるけれど効果は出ません。衰弱が日に日に進み、今日明日とも知れない病状で「何とかして」と両親は医療者にすがりつきます。妻は泣くばかり。その中でどうしてよいかと、手も足も出ない無力感に打ちふしがれ立ち尽くす看護師たちでした。「渡辺式」を使って分析しながら、それぞれの人の体験世界を描いていきます。あと2ヶ月で出産です。《逝く命と誕生する命》があります。せめて・・・・。

「ねえ〜お父さんにならせてあげよう。赤ちゃんと対面させてあげようよ」という声が出ました。エコー下で、2つの命の対面をはかろうというアイディアです。「産科外来に頼もう」、「イヤ助産師を呼んでこよう。『エコーと一緒に病棟に来て!』って言ってさ」と議論は一気に活気づきました。絶望的な状況でも、いや絶望的な状況だからこそ、看護がこの人たちの一瞬の喜びを創り出していけるのです。皆で「渡辺式」を使って分析しながら、「看護ってやれるかも」、「看護師って良いな」と素直に思えることが多くあります。不思議な感覚です。

「渡辺式」で分析していると、患者家族もまた愛おしく感じられる瞬間が訪れます。-60歳なかばの脳血管障害の介護度4の女性に面会に来る70歳代の夫は、「家に連れて帰る」と無茶を言い、娘・息子との家族騒動が起きているケースです。もう10年も在宅介護が続きヘトヘトになっているはずの夫であり、現状認識が出来ないことに皆で首をひねりました。
事例提供者からポンと、「この方は若い時、スチュワーデスだったのです」と情報がもたらされました。えっスチュワーデス?!倒れたのは50歳代、バリバリ生きていた妻が突然倒れ、以後寝たきりで、哀願するように妻から「家へ...」とつぶやかれたら、夫は自分が犠牲になっても...と考えたくなるのでしょう。うんそうか、そうなのか、「皆で最善の道を探そう」というエネルギーが看護師たちに湧いてくるのでした。

なぜ、こうした変化が「渡辺式」の事例検討から生まれてくるのでしょうか?それは、「渡辺式」の分析では、患者・家族メンバーそして看護師それぞれの『文脈をつかむ』つまりストーリーのようにして、その人の言動の背後にある言い分を推察するからです。

ストーリー的(ナラティブ的)理解とは

看護の情報とは、身体的、心理的、そして自己概念や家族情報からの役割認識など様々です。それらの情報(コンテンツ)を紡いで全体の像を作るとき、最後にぶ〜と生命を吹き込むのは、文脈(コンテキスト)を探るという思考と作業です。相手の内側に入り込むようにして、その人自身になったつもりで、つぶやきやセリフを言ってみるのです。それはきっととてもリアリティのある言葉なのだと思います。

事例検討をするときに、よく聞かれるのが「家族の情報がなくて...」です。とりわけコロナ禍で面会制限があると情報を得るのは難しくなります。しかし、患者との普段の何気ない会話の中から、看護師がもっている情報はけっこうあるのです。ベテラン看護師となると「いつか必要かも」としまっている情報はたくさんあります。家族への思いの言葉だったり、家族のことを話すときの仕草や表情、そして面会に来る/来ない、の行動まで実に様々です。そこから推察・推論の能力を最大限発揮して、リアリティに近づくことが、アセスメントするということです。

この先が重要です。リアリティにえがいてみた患者・家族の体験世界は、仮説でしかありません。本当にどうなのかしら、と関わりを通して仮説を検証しつつ修正をはかっていくことが重要です。患者・家族との対話はどんな情景となるでしょうか。「今・・・と話されましたが・・・ということですか?」「ああ〜なるほど、てっきり・・・と思っていました。・・・でしたか、そうでしたか〜」「で、・・・に関してはどうですか?」「ああ〜なるほど」というように、患者・家族は看護師と深い対話を経験して、「わかってもらえた」という安堵と喜びを関することでしょう。これが「臨床推論」の「仮説演繹法」ということです。意図的な看護の関りとは、無我に近い傾聴ではなくて、訊ねることから始まる対話にあるのです。